ピルシトレ

感想や思った事をぼんやり書いてます

【漫画】古谷実作『ゲレクシス』から考える孤独と引き籠り

はじめに(飛ばしても問題なし)

実は僕は古谷実作品をほぼ読んだ事がない。
稲中』は学生時代男子の間では必読かのように、多くの人が読んでいたように思うが、当時は初期の絵柄や腋臭ネタがどうしても苦手で、パラパラめくった程度だった。
グリーンヒル』は読む前から、皆が面白いと言っている『稲中』作者の作品だから、きっとこれも笑えるに違いないと自分の中で期待を高めすぎ、またギャグ漫画として消費しようとした自分にはイマイチぴんと来なかった。今読めば感想も違うだろが。
どんな話だったかすらも覚えていないため、古谷作品に関する知識やイメージは皆無に等しい。

ただ、なんとなくではあるが彼の作品の映画化や、近年どことなく不穏な雰囲気が作品に顕著になっている印象があった。

 

そして今回読んだのが『ゲレクシス』だった。

連載開始時2話まで偶然雑誌で読んだが、久しぶりの古谷作品を目にした僕にとって、絵の素晴らしさ以外は特筆すべき事もなく、読むのをやめてしまった。
なので、『ゲレクシス』が続いているのか、何巻で終わったのかも知らなかったが、数週間前、偶然目にした表紙を思わず手に取る事となった。中を開くまで連載開始時読むのをやめた作品だった事すら気づかなかったが、実は僕が読むのをやめた直後の3話から、この作品は一気に加速していたのだ。

連載時2話で切った自分を蹴飛ばしてやりたい気分を押し殺し、『ゲレクシス』から孤独について少し考えてみる。

 

ゲレクシス(1) (イブニングKC)

ゲレクシス(1) (イブニングKC)

 

  

主人公とストーリー

以下ストーリーの説明とネタバレも含むため、『ゲレクシス』は全2巻と非常に短い作品なので、読んでいない人は読む事をおすすめする。ミステリーやどんでん返し明確なオチ(最後をどんでん返しと考えるかは人それぞれだが、僕はそうは思わない)があるわけではないので、気にはならないと思うがご注意を。

主人公

主人公は40歳になったバウムクーヘン専門店の男性店長。高校に行かず、10代の頃から父親と店を切盛りし、父の死後も残された借金と店舗を抱えながら、日々バウム作りに励んでいた。バウム一筋で他の事はなにもない、店長曰く「22くらいからの思い出がない」

バイトの女性から「総括してみてよ、手前の半生はどうだったか?漢字一文字で書くと何?」と散々いじられた挙句「本当はやりたかった事とかあったんじゃないの?」と核心をついた質問をなげかけられるが、店長は「特になかった、最初はアレだったが、今ではこれで良し」と返していた。

 

奇妙な人物との出会い

そんな店長が公園で見かける女性に恋した事からこの物語ははじまる。バイトにけしかけられ、その女性を見に公園へ行く二人。しかし、公園にいた女性は店長にしか見えておらず、所謂、幽霊のようなものという事が発覚し路上で店長が項垂れる。ここまでが、僕が連載時読んだ2話だ。

 

問題は3話である。幽霊かどうか確かめるため店長は彼女に話しかける。女性は美しく店長に目線を合わせるが言葉が返ってこない。あきらめず話しかける店長。すると次の瞬間、女性の頭部は奇妙な造形へと変化する。大きく膨らんだ卵のような形にアンバランスで均整のとれていない鼻や口、異常に細く垂れた目が配された奇妙な頭部。体は華奢な女性のままであるため、余計にその歪さが際立つ。女性の姿をしていたが、彼は男だ。名前はなく店長は後々、彼の事を「モウソウ」と呼ぶ。
そして、モウソウは泣きながら店長に自らの事を語り掛ける。
「自分は目を開けた瞬間こんな姿になり、誰からも見られず話せず、自分が誰かもわからず、独りでこの場所から動けず20年以上立ち続けている」と。

モウソウが店長に触れた瞬間、店長の顔もモウソウのように人間とはかけ離れたものへと変化した。その姿が表紙の絵だ。

 

https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51GU2gTsVNL._SX353_BO1,204,203,200_.jpg

 

何も感じずただ生きているだけ

店長は元に戻ろうとするが、モウソウにもその原因は分からない。その上モウソウは「食欲も尿意も眠気も疲労もなく、自ら死ぬこともできず、何もない」と店長に告げる。「死んだと思う日もあれば、死んでないと思う日もあり、それを何度も繰り返し、どっちも大して変わらないと思うようになった」事を感慨深げに語る。

途方に暮れる店長に反して、話し相手(友達)ができ喜ぶモウソウは店長に正気でいるコツを伝授する。

 

「人間には他人の目が必要。あそこに見える排気口の穴、あれを他人の目にみたてて俺は正気をたもってきた」

 

その後の展開

 

ここから物語は更に加速していく。詳しくは読んでほしいが、箇条書きにすると

  • 首がとれて、新たな体が生えてくる
  • 体が生えた瞬間から、人間らしさが取り戻される(空腹や疲労、そして死)
  • 自由に動きまわれるようになり公園から抜け出すが、何故か森になっている
  • 彷徨った2人は、同じ状態になった「正気」という男に出会う
  • 森を抜け、民家を発見するがそこで3人と似た状態の「順平」と出会う
  • 順平から「他にも仲間がいたが皆死んでいる。僕たちは人間に見られる(少しでも認識される)と死ぬ」事を知らされる
  • 早朝散歩していた正気は、森で喋る木と出会い自分達の症状が「ゲレクシス」であると知らされる
  • 「ゲレクシス」はこの世にいてもいなくてもいい比率が完全に完璧に半々になった人間が稀になるらしい
  • 人間に見られた順平が死亡し、人間に見られる事が死へ繋がる事を確証する
  • 空腹に耐えられず民家で携帯電話を調達し、バイトと連絡をとろうとするが、侵入途中で人間に発見される
  • 見られてから時間の猶予が若干あるため、最後に店長のバウムを食べようと決意する3人。なりふり構わず店へ行きバイトにも姿を見られるが、最後の晩餐のように好きなものを食べまくる
  • 眠る店長に死んだ順平が語り掛ける「他の人はだめみたいだけど、大西さん(店長)は違うみたいです」
  • 次の瞬間、順平の言葉が冒頭のバイトの言葉「総括してみてよ、手前の半生はどうだったか?漢字一文字で書くと何?」と入れ替わり、店長は夢から覚める
  • そこは40歳の誕生日をバイトと過ごしていたファミレスであり、店長は元の人間の姿に戻っていた

 

その後1年が経過するも、店長は時間を見つけては公園に通い死んだ彼らを探すが見つからない。民家侵入の際、自分の判断ミスで人間に見られてしまい彼らを死なせてしまったと、自分を責める店長。最後に店長は「もし、彼らが目の前にまた現れたら自分はどうするか」自問自答する。

 

「多分、行くな…きちんと準備して。仕方ないや、たまたまで割り切れたら人生なんていらないだろ?」と呟いた次の瞬間、店長は再びゲレクシスの状態へと戻ってしまい、この漫画は唐突に終わりを迎える。

 

終わり方は無理やりといった感じだし、所謂夢オチであるためそこに深い意味付けをするのは不毛だろう。しかし、この短い漫画で描かれた体験は、孤独を考えるのに大きな意味を持つだろう。

 

無自覚な孤独

 

まず、店長は若くして母を亡くし、高校には行かず10代の頃から父と二人でバウムクーヘンを作り続け、その父も死去している。仕事をしていて、バイトとファミレスに行くぐらいは社会的な生活を送っている。しかし、店長自身が語るように「22くらいからの思い出がない」のである。女性と付き合った事もキスをした事もない、友人の存在も見えない。思い出もない。バイトから「総括してみてよ、手前の半生はどうだったか?漢字一文字で書くと何?」と聞かれると「バウム」としか答えられない。

 

人生の大半をバウムクーヘン作りに費やし、他の何とも繋がりを持っていない人生だった。店長は明るく、バイトにいじられながらも円滑なコミュニケーションをとれているため、読者は一見すると彼の孤独に気づき辛い。

「バウムに熱意を燃やしそれに注力した人生」と言えば美しいが、それは結果論にすぎない。店長は父親に仕事を強制させられていた。(店には借金があり人手も足りなかったのだろう。そのため高校に行けていないのだと推察される)

結果的に店長はバウム作りが仕事となり天職となったのだろうが、その反面失ったもの(失う以前に多くの人がえられたもの)が多すぎた。

 

友人の存在も見えず、家族もいない、彼女もいた事がない、唯一の話し相手はバイト、思い出もない。そして、人生の半分が終わった店長に、孤独の影を感じるのは不思議ではない。

 

モウソウとは何者か?

 

次に公園で出会ったモウソウを思い出してほしい。モウソウは誰からも認識されず、話も出来ず、動く事も出来ず、ただ立っているだけで20年以上過ごしてきた。厳密に言うとモウソウが過ごした年数は今年が23年目だ。そして、何気なく1話で紹介されているが、店長がバウム作りをはじめて今年が23年目だ。(因みに店長とは対照的な印象のバイト女性の年齢も23であるのも興味深い)

 

f:id:ko5tys:20190626125904p:plain

 

この23年目という数字はそれぞれ1度しか登場しておらず、見逃しがちであるがこの一致は明らかに作者の意図したものだろう(他は20年以上という表現になっているのも、作者なりの隠し方だろう)店長のバウム作りと同じ期間、孤独に何もできず過ごしたモウソウ。

モウソウが店長の妄想であるというより、店長自身の孤独を反映された影だと考えるほうが自然だ。その孤独は無自覚なものである。バウム作りで毎日をおわれた彼の半生は、「誰からも一人の人間として認識されることなく、孤独に過ごし、その世界から動けないモウソウ」そのものである。

 

自身が孤独を感じていなければそれは孤独ではないのではないか?と疑問があるかもしれないが、モウソウは西尾維新の『化物語』における羽川翼のストレスの発露/解消として表出したブラック羽川に近いものと考えると想像に難しくない。

https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51HgWS86kSL._SY445_.jpg

一見するとギャグでコーティングされた、うだつの上がらない中年男性の悲哀として読者を錯覚させるが、その実は圧倒的な孤独が横たわっている。

 

何故ゲレクシスは人に見られると死ぬのか?

 

人間は一人では生きてはいけない。生きていくには人の目が必要だ。人の目は時に残酷であるが、それがないと人間は孤独に耐えられない。モウソウが語っていたように。

 

「人間には他人の目が必要。あそこに見える排気口の穴、あれを他人の目にみたてて俺は正気をたもってきた」

 

他人の目という点からゲレクシスの症状を考えると、この症状の意味も自ずと繋がる。ゲレクシスとなった者は人間に見られる(認識される)と死ぬ。これは上記したように、人間にとって他人の目が矛盾した大きな力を持つ事の現れそのものである。

他人の目がないと生きていけない反面、時に他人の厳しい目や冷たい目が人を殺すこともある。

 

他人の目によって自分がここに存在する事の確認と理由が生まれる。しかし、ゲレクシス状態となった店長らの姿はどうだろうか?

 

https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51Vz7OGX46L._SX349_BO1,204,203,200_.jpg

このような生物を見て他人がどう思うだろうか?答えは明白だ。

拒絶、理解不能、蔑視…興味を持つ人はいるかもしれないが、好意を持って接触する人は少ないだろう。 現実世界でこのような人間はいないが、この姿はルッキズムや異質なものの記号的表現だ。

 

ゲレクシス=引き籠り

 

今年に入り引き籠りに関連した痛ましい事件が発生していた。犯人らの根本には社会との断絶があった事は間違いない。しかし、一口に「引き籠り」といっても状態や事情、そこに至るまでの経緯は様々で、「引き籠り」が原因などという乱暴な見解は全く的を得ていない。

 

例えば、いじめにあい学校に行かなくなり、そのまま社会と接点が持てなかった人。病気や障碍により本人の意思とは別にそうなってしまった人。病気やケガなどで、見た目に問題を抱え、他人の中傷や目から逃れるためそうなってしまった人。面接が上手くいかず就職自体に失敗し力尽きてしまった人。一度は企業に勤めるが何かの理由で退職するも、再就職が長い間うまくいかず自信を失い籠ってしまった人。まだまだ、他の理由や経緯もあるが割愛する。

 

一般的に、人は働き、勉強し、育児をし何らかの社会的なつながりを持ち生活するのが大半だろう。そんな人たちからすれば、「普通の人生」から外れてしまい籠ってしまった人たちは、異質に見え理解すらできないだろう。

いや理解できないだけならまだ良い。籠る人を責める人も多くいるのが現状(籠る人にも原因や問題がある場合も勿論あるが、全てを努力不足や解決できなかった本人のせいにするのは乱暴すぎる)だ。

 

余談だが、学生時代いじめにあい、それが原因で引き籠ってしまった人がいた。その人の話題がでた際に、いじめていた当人(いじめていた認識すら無い、忘れている、若しくはなかった事にしている)が、如何に引き籠りが駄目で本人に問題があり努力していないかを饒舌に語っている姿を見て、心底絶望した。彼は今立派な看護師なので社会的立場も友人の数も生活の水準もいじめられた人よりも上なのだろう。その、圧倒的な立場の違いから自らの行いを棚に上げ、マイノリティへ無自覚な暴力をあびせている。

 

話を戻そう。人は、そういった自分とは違う存在、当たり前だと思っている事ができていない存在へ奇異の視線と、容赦ない暴力をあびせる事がある。これこそ、『ゲレクシス』で描かれる孤独な人が抱える問題なのだ。

 

一見すると、孤独ではなく社会的にも繋がりがある店長だが、その実は圧倒的な孤独と社会的な断絶、皆が当たり前のようにしてきた経験を持っていない。それが具現化し「モウソウ」という存在を生みだした。

ゲレクシス化した者が人間に認識される事で死を迎えるという現象は、それは誰にも認識されないまま孤独にいる事の苦悩と葛藤を抱きながら、何とか社会や他者とつながろうとするも、他人の目(引き籠りを異質なものとしかとらえられない人の目)に晒される事で、再び傷つき自信を失い、社会への復帰を拒まれる(社会的な死を迎える)籠った人々の苦悩を映し出している。

 

※ここでいう引き籠った人の苦悩も人それぞれであるため、すべてではない。働きたくないでござる!なんて本気で思ってる人もいるかもしれないが、多くの人はそうではないと僕は考えている。

 

ゲレクシスとなった店長やモウソウ、正気らが人の目を恐れたように、引き籠る人にとっても社会から向けられる人の目は恐怖そのものだ。それでも、店長らは人間に戻る希望(店長自身は目的を持つべきだと言っていた)を捨てず、生きるために集落(社会)にある民家へ侵入した。しかし、店長のミスにより簡単に人間に見られてしまう。

 

社会へ復帰しようと懸命にもがいても失敗は往々にしてある。その結果の積み重ねが更なる引き籠る時間となってしまう事も。そんな彼らに奇異の視線と社会的な敗者の烙印を押す者たちこそ、店長らを目撃し死へ追いやった、壁に立ションベンをしていた咥え煙草のブリーフ姿のおっさんそのものだ。

 

そしてそれは『ゲレクシス』を読みながら、彼らの言動や苦悩を笑ったりつっこんだり、時には馬鹿にしてしまっているかもしれない読者の目でもある事を忘れてはならない。『ゲレクシス』は「単なる不条理ギャグ漫画だからそう考えるのもしょうがない」と思うならば、それこそ作者が引き出そうとした人間の姿なのである。

 
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村