【アニメ】『シン・エヴァンゲリオン劇場版』冒頭10分を見て、ぼんやり考えた事
内容のネタバレを含むため、見ていない人はご注意を。
はじめに
昨日、全世界同時に公開されたエヴァ冒頭約10分の映像。
イベント会場からの中継のため、映像の細かな部分やニュアンスは把握できなかったが、冒頭からの派手なアクションシーンが、破、Qと同様に観客の心を掴むのには十分だっただろう。
既に公開されていたマリ搭乗機によるアクロバティックな空中戦は、さしずめ舞台でワイヤーに吊るされ演舞する踊り子のようだ。
以前から仄めかしていた事だが、相変わらずの時代錯誤なマリの台詞や選曲は「過去の人/ユイと同じ時代を生きた人」の証左か、監督の趣味の投影なのだろうか。
巨大な歩行型のあいつ(名前忘れた)が一列に並んで向かってくる姿は、『風の谷のナウシカ』における巨神兵が槍をもちゆらゆらと歩み寄る姿を想起させ、機械的な関節の動きも相まって不気味で面白い。
映像終盤のマリによる戦い方は、武器を建築物に持ち替えたとはいえ、破のゼルエル戦(新劇場版ではゼルエルとは言わないんだっけ?)を思い出す。
興味深かったのは、マリが搭乗するエヴァに通常の操作部分と、車のハンドル操作に近いものが追加されている事だ。確か破やQではこういったものではなかった気がする。どことなく工事用ロボ感があるデザインで、尚且つ回転しながら戦ってる事から、そのイメージを直感的に表す操作系統いった感じだろうか。
全体を通しての率直な感想としては、派手で見ごたえがあり楽しめた。
以下これまでのエヴァについてがメインで最後に『シン・エヴァ』にも触れているが、考察などではなく、個人的なぼんやりした感想なので、考察を期待する方は他を回った方が良い。
旧エヴァについて
自分の場合は貞本版エヴァ、テレビ、旧劇場版全て、序、破、Qには目を通している。ゲームは鋼鉄のガールフレンドのみで、他はあまり知らない。人生で一番影響を受けた作品である事に間違いはなく未だに『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』がベスト1の映画だ(綻びやその歪さも含めて僕はあの作品が好きだ)。
好きなのだが、所謂コアなファンのようにあらゆる情報を熟知し記憶しているタイプの人間ではないので、ここから話す事には僕の勘違いや、理解不足があるかもしれない。
特に考察が好きな人には笑われるような内容だろう。
正直言うと、新作序の発表を聞いた際は「またエヴァをやるのか、面白いものは他にもいっぱいあるのに、今更やり直す意味などないのでは?」なんていう思いもあった。
旧作原理主義ではなく、ただただ時代錯誤で中年のノスタルジーにしか響かない空しいものになるのではないかと危惧があったからだ。
また、旧劇場版のパンフレットで鶴巻さんがメッセージとして「他の新しい楽しいものを見つけてください、すぱっと終わった方が美しいでしょ」みたいな事を言ってた気がするが、僕も同感だった。※微妙な記憶違いがあるかもしれないが、ただそういった内容の事が書かれていた事は間違いない。
しかし、口ではそう言っていても、いざ公開が始まると嫌でもわくわくしている自分がいた。こんな歳になってエヴァにわくわくしているなんて、あの時の自分は想像もしていなかっただろう。
今更、エヴァに関する謎がどうとか考察にはあまり興味がなく、ただ自分が好きだった作品が新しい映像、新しい音楽、新たなストーリーで見られるという事に仄かな喜びがあった。
新劇場版について
序
なので序を観た際は、映像は綺麗になっていてヤシマ作戦は非常に見応えがあり、カヲルの登場もあって驚きや楽しさは味わえたものの、物足りなさは感じていた。実は、序で一番感動したのは宇多田ヒカルの新曲が聞けた事だった。
破
続く破は、アニメ作品の中でも屈指のエンタメ映画に仕上がっていた。エヴァという肩書なしでも、十二分に楽しめる「ロボットアニメ」だったと思う。終わりの展開からも、次回作への期待が高まる内容だった。残念だったのは、宇多田ヒカルの新曲が聞けると期待していたが、リミックスだった事だ。
Q
しかし、Qに関していうと残念な内容だった。1度見て観返していないので、自分の理解不足や見落としが多いせいかもしれないが、「これまた庵野監督が迷ってるパターンで、ひっぱって風呂敷だけ広げる展開じゃん」というのが率直な感想だった。
次から次に出てくるエヴァ(もうどれが何号機か把握するのも面倒になっていた)や、もう何でもありな能力や武器、展開になっていて一体自分は何を見ているのか整理が追いつけない状況(破でも結構むちゃくちゃな能力が発動していたがQは許容範囲を越えていた)。
葛城ミサトについて
まだ、それだけなら良いんだが、一番残念だったのは葛城ミサトが「碇シンジ君、貴方はもう何もしないで」と言った事だ。ミサトは破の終盤に暴走(覚醒)したエヴァ初号機とシンジに対して「行きなさいシンジ君、誰かのためじゃない、貴方自身の願いのために」とシンジの背中をガンガン押している。にも関わらず、Qになると目覚めて状況を全く把握できてない14歳の少年に対して、ろくな状況説明もしないまま「何もしないで」と冷たくあしらうって、大人、いや人としてどうよ?仮にシンジがやらかしたとしても、最低限説明はすべきだろう。こんな上司がいる組織は間違いなく炎上する。
そもそも、育児放棄した少年を呼びつけ、包帯姿の少女を餌に、少年の男心を焚きつけ、ろくな説明もなくエヴァに乗せ使徒と戦わせ(しかも滅茶苦茶痛い)、終いには人類の運命まで背負わせてる時点で、もう無茶苦茶ではあるのだが。
他人との関係性で苦しむシンジの演出、まだ考えられていないストーリーの回避、謎めかす事で観客の興味の持続、様々な理由は考えられるけど、いずれにしても、ミサトのあの態度はないと思う。作品に集中するよりも、一気に現実に引き戻されて「何言ってんだこの人」と呆れてしまった。
渚カヲルについて
またカヲルの無駄な死も、旧作からの引用をしつつショッキングな映像で印象付けたかったのだろうけど、あの演出もお粗末で残念なものに感じた。
テレビ版では、シンジの周りから物理的にも精神的にも人々が離れ、再び孤独を感じていた時に、友人と呼べる存在がカヲルだった。しかし、そのカヲルが最後の使徒であり、裏切られたとショックを受けるシンジが、最終的にエヴァでカヲルを握りつぶし、彼の首が落ちるという演出だった。握りつぶすまで絵が止まった長い時間は、実際には時間稼ぎ(絵を描かなくてよいので)なのだろうけど、それを逆手に利用して「シンジの葛藤」という見せ方をした。
また、意外に忘れられがちだがエヴァとシンジはシンクロしているため、エヴァが受ける痛みがシンジに伝わるように、カヲルを握りつぶした感触はシンジの手そのものだ。なのでその感触が一生、14歳の少年の手に残る事になる。その残酷さと辛さは、単に友人を殺してしまったという以上の意味を持つ。
握りつぶすという行為は、友人として握った手を離す事でもある。だからこそ、新劇場版で意識的に見せられたシンジの手のアップや、誰かと手をつなぐ、若しくは手を離すという行為が、より特別なものに見えたのだ。
しかし、そんな事はなかったかのように「カヲルのショッキングな最期」という絵面上のインパクトと、「首が飛ぶ」という要素だけの安易な引用により、余計に「何これ?」感が強まってしまった。
唯一、素晴らしかった点は宇多田ヒカルの新曲『桜流し』が生まれた事だ。あの曲は彼女の楽曲の中でも素晴らしい作品で、『桜流し』が生まれたというだけでもQの意味はあったと自分を納得させた。
再び『シン・エヴァンゲリオン劇場版』冒頭10分
そして、今回公開された『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の冒頭約10分である。
予告で流れていたあしゅら男爵みたいなエヴァ8+2号機による、コテコテの3DCGで無双ゲームのムービーみたいなものが本編で使われるのかは未だ不明だが、序盤から派手な目を引く映像。
冒頭述べたように、派手で見ごたえがあり楽しめたというのも偽りのない感想だが、それとは別の思いもあった。
空中戦艦による攻防、パリという舞台も手伝って『不思議の海のナディア』でのレッドノアとニューノーチラス号を思い出しつつ、出オチっぽいが新たな要素(ヴィレにとっての敵)の出現や、街の再生など目まぐるしい展開は、今後の期待と同時に風呂敷がどの程度仕舞えるのか不安が募るものでもあった(これはエヴァではいつもの事でもあるが)。
あとは宇多田ヒカルの新曲への期待と、若しかすると高橋洋子による曲が何か使われるのではないかと予想してみる。
そういえば、お姉さんだと思っていた葛城ミサト(旧作品)よりも、自分は年上になっていたのだと、ふと気付く。時間が経つのは早いものだし、これからもその差は開くばかりだろう。
しかし、新劇場版の葛城ミサトの年齢になるまではまだ時間がある。いつかは、その年齢も追い越すだろうけれど。ただ、貞本版エヴァで夏が終わり冬が訪れたように、シンジやミサト達の時間が未来へと進む事を願いたい。「自分自身の願いのために前へ進め」と後押ししたミサトの言葉が決して嘘や無意味なものではない、シンジが選択するQの先の未来を見てみたい。
僕が新劇場版の葛城ミサトの年齢を越えるのはその後になるだろう。